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粟津潔
粟津デザイン室
1960s 1970s 1980s 1990s 2000s
1929  昭和4年 0歳
2月19日、東京都目黒区碑文谷に、父 恵照、母 ハルの長男として生まれる。姉 恵美子は当時3歳。
父 恵照は1900年(明治33年)12月に石川県羽咋郡東増穂村里本江の浄土真宗 広覚寺の次男として生まれた。母 ハルは1899年(明治32年)3月、深川大島町生まれ。
1930  昭和5年 生後11ヶ月
2月12日、父 恵照死去。(享年30歳)
1933  昭和5年 4歳
母 ハルが吉田重五郎と再婚。当時潔は4歳、恵美子は7歳。
1935  昭和10年 6歳
 
東京三文おぺれった
碑尋常小学校に入学。
この頃、碑文谷付近を彷徨する夫婦づれの盲目の乞食をよく目撃している。
一本のヒモで繋がり、お互いをいたわり合いながら一軒一軒物乞いして回る二人の姿を後年まで鮮烈に記憶している。 「繋ぎ乞食」(清水哲男、正津勉らの同人誌『唄』所収の短編小説)さらに戯曲「東京三文おぺれった」(小沢昭一と芸能座演・1976年)はこの時の記憶をテーマにしたものである。
1941年  昭和16年 12歳
碑尋常小学校卒業。
立正商業学校(定時制)入学。同時に氏家研究所(輪転機、複写版をつくる工場)の給仕となる。
半年ほどで辞し、目黒の木工建具組合の事務所の給仕となる。ここで上目黒の建具職人 秋山寅吉に出会う。彼のつくる豪華邸や高級料理屋の欄間などは、とりわけ素晴らしく、「空間」に対する認識を持つようになる。
また、組合の老書記 佐藤政太郎を通して、キリスト教、短歌に接し、古本屋めぐりをはじめる。古本屋で粟津が初めて自ら求めて買った本は、柳田国男の『秋風帖』である。
1945年  昭和20年 16歳
多田憲一という哲学者に接し、哲学に興味を抱く。
立正商業学校を4年で繰り上げ卒業、法政大学産業経営学科専門部に入学。(わずか1年で退学)
粟津は「買い出し」をしたりして一家の経済的な維持を負担した。
1946年  昭和21年 17歳
4月、国鉄の目黒駅改札係に採用される。
法政大学近くの「社会科学研究会」に通い、マルクス、レーニンを知り、学び始める。
1947年  昭和22年 18歳
義父の吉田重五郎死去。
荒涼とした戦後、手当たり次第に手に入る本をよく読み、暇さえあれば映画館に通う。
チャップリンの無声映画、デュヴィエ、ルネ・クレールら戦前の名作から戦後のイタリアン・リアリズムやアメリカ西部劇のことごとくを見て歩いた。それから実験映画や前衛映画、とりわけヨリス・イベンスの映像は、後日の映画制作にかきたてる。
古い美術雑誌の口絵や『生活美術』、『みづゑ』などを教科書にして独学で絵を描き始める。
1948年  昭和23年 19歳
当時のスケッチ
国鉄を辞職し、浅草鳥越に設立された「日本作画会」に就職。
日本作画会は日活系の映画プログラムの編集及び印刷、看板等装飾品の制作会社であるが、粟津は当初運搬係として雇われた。

絵画やデザインに強烈な興味を抱くようになったのも、この頃。浅草で知り合った行動美術の石坂勇二にスケッチやエスキースの手ほどきを受ける。
人物のスケッチは、たいていの場合電車の中で行った。藁半紙を半分に切り、ベニヤ板の上に50枚くらいをクリップで止め、5〜6本の鉛筆を持って山手線に乗り、乗客のスケッチを続ける。山手線はさながら動くアトリエであった。
さらに同人誌『東原文学』の同人として短編小説、詞、俳句を投稿。

内外情勢の混乱を背景とし、マルクス主義には疑問を持ちながらも、秋に共産党に入党。(幾多の闘争を経験しながら、活動は1955年7月の六全脇批判による脱党まで続いた。)
1950年  昭和25年 21歳
2月、日本美術会(創設1947年)主催の「第3回日本アンデバンダン展」に初めて出品。
この頃、日本作画会を辞め、恵比寿にあった「日本アニメーション」でアニメーションの下描きしていた。
1954年  昭和29年 25歳
「カサブランカ」「ガス灯」「凱旋門」などの映画ポスターで知られる板橋義夫の紹介で独立映画宣伝部に嘱託として入社。映画のチラシの下書きや版下製作主な業務であった。
友人の奈良義巳(現フィルムアート社 社長)がもたらした、村山知義らの新協劇団が上演した演劇「石狩川」のポスターが粟津の初仕事となる。以後、新協劇団をはじめ、前進座、新制作座などの演劇ポスターを次々と制作するようになる。
1955年  昭和30年 26歳
海を返せ
5月、渋谷八重子と結婚。
8月、日宣美展(1953年より公募制を設け、新人の登竜門的性格を持っていた)に、軍事演習場として海を奪われ、出稼ぎを余儀なくされた老漁夫の怒りをモチーフとして描いたポスター「海を返せ」で初めて応募し、日宣美賞を獲得。
独立映画入社後、初めて待望の映画ポスター、ルネ・クレマンの「鉄路の闘い」を製作。
11月、独立映画を辞し、日活に入社。宣伝部嘱託となる。日活では当初からポスターデザインの制作にあたるが、当時の映画界はメイン作品と、そうでないサブ作品に分かれていて、どちらかといえばサブ作品が多かった。
1956年  昭和31年 27歳
ネクラソフ
8月、第6回日宣美展において、新協劇団のポスター「ネクラソフ」及び日活のポスター「わが町」によって日宣美奨励賞を獲得。日宣美の会員となる。
杉浦康平が「レコード・ジャケット」で日宣美賞を獲得したのもこの時である。
9月、長女 美穂誕生。
11月、目黒から小田急線の生田に転居。
1957年  昭和32年 28歳
絵を描く子供たち
映画、演劇ポスターを多く製作。日活では「高野聖」「ビルマの竪琴」それに羽仁進の処女作「絵を描く子供たち」など海外向けポスターを描き、デザインする。演劇では新制作座の「夜盗、風の中を走る」、前進座の「東洲斎写楽」を始め、文化座、新協劇団のポスターなど。

この頃のイラストレーションは、ベン・シャーンの影響を受けていた、といわれている。シャーンのたどってきた道と線画によるイラストレーションは。粟津の描き、デザインすることへの意欲をかきたてるのに充分であった。
斎藤プロセス(印刷所)の斎藤久寿氏を通じて杉浦康平、宇野亜喜良らと知り合う。特に杉浦康平とはしばしば共同制作をした。(1958年には原水協のポスター「国連総会へ」を粟津が描き、杉浦がレイアウトを担当)
1958年  昭和33年 29歳
パリで開催された「世界フィルムポスター・コンテスト」に出品した一連の映画ポスターで最優秀賞を獲得。
日活を退社。
一方、イラストレーションに指紋を導入しはじめたのもこの頃。様々な方法を試行錯誤する。この方法は、さらに後年、地図、印鑑、手形、方位図などの図形導入はの発端となる。

この頃から、デザインとは何か、とりわけデザインの機能ということを考え始める。そしてジョージ=キープス、モホリィ=ナギ、ハーバード=バイヤーといった実作本の作品や考え方にふれるようになり、またハーバード・リードといった優れた理論指導者の書物にふれる。
この年、株式会社日本デザイン・センターに参加を要請されたが、参加せず、自主性を貫く。
『レミは生きている』(児童本)の挿画。
1959年  昭和34年 30歳
10月、世界デザイン会議(1960年開催)の日本運営会が創設され、建築から槙文彦、川添登、インダストリアルデザインから栄久庵憲司、河合昭一らが加わり、グラフィックから粟津が参加。