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私は、絵やグラフィック・デザインの仕事をふりだしに、映画・美術・舞台美術・個人映画製作・壁画制作・彫刻の仕事や版画制作のほか、デザインやアートに関する数冊の本を書き、一度だけ「東京三文おぺれった」という芝居の本を書いた。
これからどんな仕事をするか、自分自身でも楽しみにしているが、絵やデザインの仕事をしてきて、気がついてみると50年もたってしまった。仕事した数は数えることができない。およそ3000点は超えていると思うが、パブロ・ピカソからくらべれば10分の1にすぎない。
私は好奇心の塊のような人間で、今日までやってきた。自分自身に関心のあることであれば、何処へでも出掛け、わからぬことのために読書に更けることも多かった。絵やデザインの仕事は、感覚や閃き、イメージの仕事だが、それだけでもない。事物や空間に対して、たえず質問を用意することだと思ってきた。
ある時は、神話や民話、伝説や奇談にひかれ、ある時は生物学に浸り、北斎に誘なわれ、ガウディ(Antonio GAUDI)に興味をもち、あれこれ寄道ばかりしてきた私である。このまま進めるとすべて未完へ向かってまっしぐらという感がある

絵画するイメージが一体何処から訪れてくるのか。白い紙の上に1本の線を無造作にひいてみる。白い紙は、たちまち画面であり、空間なのだ。白い紙を前にして、私はイメージの訪問を待つ。瞑想している時よりも少しは確実でなければ描くこともできないが、夢なのか円を描き眼のない顔ができる。顔の四囲は、地層?層の線。ムンクの「叫び」の少女か老女の顔が浮かびながら消えていく。ピカソ、写楽、英泉の大首も心の中に浮かんだが、消えていった。瞑想が、いくつも現れては消える。まだ見ぬ顔が浮かんで消える。あれは何者の顔であったか。雲なのか、水に映された空なのか。1枚の木の葉が揺れながら消える。
絵画するイメージが一体何処から訪れてくるのか。白い紙の上に1本の線を無造作にひいてみる。白い紙は、たちまち画面であり、空間なのだ。白い紙を前にして、私はイメージの訪問を待つ。瞑想している時よりも少しは確実でなければ描くこともできないが、夢なのか円を描き眼のない顔ができる。顔の四囲は、地層?層の線。ムンクの「叫び」の少女か老女の顔が浮かびながら消えていく。ピカソ、写楽、英泉の大首も心の中に浮かんだが、消えていった。瞑想が、いくつも現れては消える。まだ見ぬ顔が浮かんで消える。あれは何者の顔であったか。雲なのか、水に映された空なのか。1枚の木の葉が揺れながら消える。
ポスターが今日、どう生活に機能しているか仔細なことを知ることはできないが、少なくとも、その時代、時代における文化の生きた証言であることに、かわりはない。それは何時、何処ででも、展覧会場のような立派なところではなく、人混みの場や、レストランや喫茶店や、汚れた塀や、ウインドーやら、個人の部屋の中のピンナップやら、自在にありつづけ、「さらされて」いるかのように貼られているからだ、と思う。したがって、ポスターは環境芸術の「素」のままなのであり、同時に街そのものをポップなミュージアムにしてしまうのかもしれない。
版画とグラフィックデザインとどう違うのだろう、と時折考える時がある。私の場合、とりたてて変わったものではなく、同じようなものだと思う。むろん、印部数に少数という限度を与えたり、シルクスクリーンとオフセット印刷の違いがある。またデザインは注文主がいて、デザインするが、版画の場合、依頼主はいない、といった差異があるにはある。
しかし、それが版画作品とグラフィック・デザインをわける理由にはならない。私の方で「これは版画です」といわない限り版画にはならないが、描かれた内容は、グラフィック・デザインやイラストレーションのイメージと共通している。版画であるからという特別な制作態度を今のところ考えたことはない。むしろ、実際のグラフィック・デザインやイラストレーションが出来上がったものをみつめながら、そこからヒントを得たり、既成の印刷物から影響されてテーマを選ぶ場合もある。
本の装幀を、どのくらいやっただろう。数えてみたことがない。随分あるが、気に入っているものは、そんなに多くない。自分でやった仕事であるから、みな同じようなものだが、心にのこる仕事は、そんなにできない。
デザインするなかで、もっとも興味ある仕事でありながら、そうである。良い仕事が、できそうで、なかなかできないのが、装幀という仕事であるらしい。著者の書いた内容もあり、本の単価から割りだされた、素材や、印刷、色数などの限界があったりする。自由にやることは許されない。
出来上がりをほぼ想像できるが、やはり出来上がってみなくては、わからない。何年かたって、ふといいなと思うこともあるし、あの時は、こんなことをしたのだなと思わせたりする。
本の装幀の仕事は、他のデザインとちがって、幸か不幸か、手元にのこる仕事である。書棚に、私のデザインした書物がぎっしり積もっている。時折手にしてみるのだが、そこには、私のデザインの記憶が、いくつもある。そうした記憶を見るのは良いが、これからの仕事を、記憶へともどすわけにはいかない。新しいイメージへ向かわなければならない。
私の「環境デザイン」は、出雲大社の『鉄の扉』(1962年)から始まり、ついで津山文化センターの『壁面レリーフと瓦でつくった内庭』、臨海工業センターの『鉄パイプの壁』、そして『寺山修司記念館』などへと続いた。これらの仕事は、ほとんど未経験な仕事であったから、図面を描くというより、現場でつくる方法であった。鉄の仕事をする時は、きまって鉄工場へ幾日かでかけていき、その中の雑然とした光景を、在るものとして見、そうした光景にさそわれるように創ったのである。津山の“庭”などは、その土地でなければ、生まれてこなかった作品のようにも思える。
環境とは、狐絶したものでなく、どこまでも事物が連続・連関しているものである。これを情況としておきかえることもできる。それはひとつの彫刻が自立しているかにみえるなかでも、それを支える台座があり、床があり、地熱があり、天井があり、天があり、である。
とりわけ私たちの世代には、芸術のジャンルを超えていってしまうようなところがある。これは相互のメディアの中での異種交配とでもいうべき現象がおき、芸術ジャンルの領域が薄らいで、そこから何か未知な世界へ踏み込んで行けるような気がする場合が、しばしばあるからだ。美術やデザインを開放的に考える場合、演劇的空間というものは、同時に美術的空間でもある。しかし今日では分業化が進んでいるから、そうした発想をするのは、戦後派といわれる、焼野原の荒地から出発した私たちだけのことであるかもしれない。
しかし演劇の仕事は、たえず共同の作業によって成り立っているが、美術・デザインは個人的作業である。そうした意味で表現のプロセスにおいて基本的に異なっていることが多い。
集団的にものを創りだす経験のないものにとっては、その差異が耐えがたい場合も多い。私は舞台美術、映画美術、戯曲、などの仕事をしたが、そのことによって得られた快感と苦痛は、ほぼ等しいように思える。作品はひとつの結果であるが、その中に多様な過程がふくまれている。
映像については、1961年「おとし穴」の予告編から始まり、数本の映画タイトルの仕事をしたのち、個人映画といわれる短編実験映画をつくるが、それは、たえずデザインの思考を、“時間”の中で思考するための作業であり、同時に図像や視覚の独自性への私の関心を示すものである。中原佑介流にいえば、“見ることの意味”である映画美術・舞台装置については、空間の意外性への願望が、いくつかの仕事をのこすことになった。「心中天網島」「卑弥呼」「田園に死す」などである。
著書について